BS NHKでやってる特集は以前から見てたけど
いざ文字に起こそうとしたら大変だと分かったナ☆
以下5分の文字起こし
アメリカ軍はノルマンディー上陸作戦以降前進を続けていました。それが初めて足止めされます。アメリカ軍はこれに対処するため経験豊かな将軍を投入します。ジョージ・パットンです。パットンが初めて放火の洗礼を受けたのは26年前の第一次大戦中のこと。対するドイツ軍の司令官モーデルも第一次大戦に参戦した職業軍人です。彼はこのときも厳しい状況を打開するためドイツ軍最後の大攻勢に加わった経歴を持っています。1918年3月27歳のモーデルはドイツ陸軍最高司令部の大尉でした。モーデルはヒンデンブルク(参謀総長)とルーデンドルフ(参謀次長)に仕えていました。ベルギーの高級保養地スパにある最高司令部で陸軍の首脳たちは大攻勢を計画していました。戦局の転換を図るためです。ヒンデンブルクとルーデンドルフはここでドイツ軍が勝利しておかなければ休戦に持ち込むのは不可能だと考えていました。第一次大戦当初フランスに侵攻したドイツはパリの北部で膠着状態になりました。北と東にドイツ軍南と西にフランス軍とイギリス軍、どちらの兵力も100万。しかし前線は動きません。大規模な消耗戦の中でソンヌ川とマルヌ川に囲まれた緩衝地帯は両軍の激しい砲撃を受けました。今でもそこにはおびただしい数の砲爆撃の後が残っています。1918年のはじめには既に150万人以上の兵士が塹壕戦で戦死しています。最前線の兵士たちは来るべき決戦にすべての望みをかけていました。あるドイツ軍中尉は後にこう回想しています。「我々は今歴史を作りつつある、と上官が言う。次の攻撃がこの戦争を勝利に導くのだと我々は信じている。」
前線のドイツ兵達は常に戦争に意味を求めていました。塹壕はあまりに悲惨な状況だったからです。食べる者が無く、常に死の危険がありました。何年もの間終わりの見えない状況だったのです。そして1918年の春これが最後の攻撃になるという期待を持ちました。戦争に勝つかもしれない。そうすれば平和が訪れるかもしれないと考えたのです。
若きヴァルター・モーデルも勝利を確信していました。彼自身前線で足に重傷を負いましたが勝利に貢献したいという意思を強く持っていました。1918年の春になるとドイツ国内には新たな希望がもたらされます。それは戦争を集結させるという望みです。ドイツはこの戦争でかつて無いほどの窮乏生活を強いられていました。1300万人の男達が徴兵され、国内に残された女達は日常生活を切り盛りし砲弾作りに駆り出されました。
戦時中、各国はあらゆる面で力を絞り出しました。一般市民を多く動員し、組織し、経済統制した力です。これら全てが総力戦をする力であると考えられました。それが戦闘をいっそう苛烈なものにしたのです。
しかし、蓄積した疲労によって厭戦ムードが高まり国民の不満が表面化します。1918年のはじめには多くの人がストライキを決行しました。飢えと病気が蔓延し、市民を苦しめたからです。その不満は遠く東のロシア帝国でも広がり、革命に発展、1917年には皇帝による専制政治が崩壊します。革命家レーニンのもと共産主義政権が取って代わります。革命の直前レーニンが亡命先から祖国に戻る手助けをしたのはドイツでした。ロシア革命の後、ソビエトの新政権は東部戦線から離脱をすることを決めます。1918年3月ロシアのブレスト・リトフスクでロシアはドイツなどと講和を結びました。これでドイツはその全兵力を西部戦線に投入することができるようになりました。西部戦線で3月下旬に予定されていた大攻勢の2週間前のことです。東部戦線から転用されたドミニク・リヒャルド一等兵は次のように回顧しています。「兵士と軍事物資を目一杯積んだ列車が次々と西へ向かった。皆、ロシアとの戦いから解放された我が軍が西部戦線を突破し絶対に勝利を収めると信じていた。」
ドイツはアメリカが総力を挙げて連合軍に参加する前にフランス軍とイギリス軍を崩壊させねばならないと必死でした。ドイツにはもう後が無かったのです。アメリカ政府はヨーロッパに送る兵士を大々的に募集、陸軍兵士の採用はわずか1年で10万人から400万人に増えました。自由のための戦い、新しい秩序のための戦いという旗印を掲げて行われたのです。まもなく新しく採用された兵士の半数がフランスの港へ到着します。兵士達に実戦経験はありませんでしたが闘志に満ちていました。軍事物資も膨大にありました。
アメリカの派遣軍は大戦開始当初のイギリス軍と同じ問題に直面します。軍事的に非常に未熟なレベルから始めなければなりませんでした。短期間で小さな陸軍を大きな陸軍にする、大量に確保したずぶの素人をいかに熟練した軍隊に仕立て上げるかということです。そこでイギリスは未経験なアメリカ兵を実戦経験のあるイギリス軍部隊に編入することも提案しました。
当初からアメリカは新たに開発された兵器を投入します。戦車です。路外走行能力に優れたフランス製のルノー戦車が使われました。若きアメリカ陸軍将校ジョージ・パットンは早くから戦車が強力な武器になると確信、新たにできた戦車部隊で成果を挙げ、後に第二次世界大戦では陸軍大将になります。パットンはこの任務をいずれはトップに上り詰めるチャンスと捉えていました。新兵達に模擬戦闘訓練を行い、戦車の操縦を覚えさせました。彼のモットーとは「戦車に乗る2人は外にいる10人に匹敵する。」
史上初めて機械を使った大規模戦争になりました。人間対機械の戦いという状況になったのです。これはこれまでにないことでした。猛烈で大量の砲撃も以前には無かったものでした。はじめて戦車が配備されました。機関銃は1丁で歩兵1個中隊を圧倒するほどの威力でした。航空機や飛行船それにUボートの登場は、この戦争が物資と兵器がものを言う戦いになったことを意味していました。1918年にはオーストリアハンガリーの戦艦セントイシュトバーグが撃沈されました。
ドイツは予定する大攻勢に備え116万発もの砲弾や物資を集積所に蓄えます。ヴァルター・モーデルは来るべき作戦を支援するため前線部隊に配属されました。任務は的確な物資補給経路の確保です。彼の目からは物資はある程度の量が確保されていました。しかし、突破作戦が迅速勝つ短期間に成功しない限り物資が不足すると見ていました。計画される大攻勢も時間との戦いなのです。ドイツ兵は間もなく始まる攻撃に不安を抱いていましたが、かすかな希望も持っていました。塹壕でこれ以上時間を過ごすよりはマシだとも思っていました。あるドイツ兵はこう記しています。「銃弾で命を落とすのは辛くはないように思える。だが砲弾で引き裂かれて切り刻まれ押し潰されるのは人間として耐えられない恐怖だ。」
フランス北東部ではイギリス兵達が陣地を守っていました。前線の連合国兵士は心理的にかなり落ち込んでいて士気が下がっていました。特にイギリスから見れば自分たちの陸軍は近い将来勝利するという実感は無く、むしろ持ちこたえられないかもしれないと思っていたのです。特に敵の攻撃がどこで始まるか分からない時にはかつ実感は持てません。一方のドイツ軍も攻撃を集中する地点を決めていませんでした。
1918年3月21日午前4時40分ドイツ軍の集中砲火が始まります。あらゆる種類の大砲1万本以上が70Kmに渡り鳴り響きました。
ドイツ軍はまず英仏軍の前線に大量の砲弾を浴びせます。その後間髪を入れずに歩兵隊が突撃にかかりましたが、イギリス軍が大砲で猛烈に反撃します。ドイツの損害は予想を超え、第一次大戦の中でもっとも多くの犠牲者を出した日の一つとなりました。何千人ものドイツ兵が主に砲撃によって戦死したのです。当時大砲はもっとも破壊的な武器でした。戦死したドイツ兵の56%が大砲によるものです。また砲撃は兵士達の心身に未知の大きな影響を与えました。シェルショックです。砲弾神経症です。
あるイギリス兵がこう描写しています。「集中砲火に意気消沈せずに正気を保って3時間以上耐えることは誰にもできない。知覚麻痺のような感じだ。砲火の後、敵がくれば我々は相手の思うままだ。」突撃部隊の一人ドイツ兵のリヒャルド「全員がドキドキしながら位置に着いた。私たちは塹壕から飛び出した。どこもかしこも突進するドイツ兵だらけだった。」ドイツの攻撃部隊は数カ所で西に5Km前進しました。しかしその代償は信じられないほど高いものでした。わずか1日でイギリス軍とドイツ軍の兵士合わせて1万7000人以上が戦死しました。
5分の文字起こしに2時間かかったナ☆つらw
虚無に生きている大学生代表になってるような気がして辛いナ☆なにか打ち込めるものはないのかしら…
ではでは